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最終電車のオープニング


8号車


僕の時計が、常に秒単位まで正確に合わせられている事はわりと知られているが、けれどその理由を知る連中は、意外と少ない。
得意になってしゃべるようなコトでもないしな。
その理由というのはつまり、今、僕が肩で息をしている理由と同じだ。

ほんの数分前、僕は、既にシャッターの下りた商店街を、全力疾走していた。
ただ今日はいつもより出た時間が遅かったらしい。
商店街の明かりが消えたときには、正直間に合わないと思ったけど。

自動改札機に定期券を滑り込ませ、階段を駆け上がり、既にホームに入って来ていた列車に飛び込む。
その背後で音をたててドアが閉じる。
そして今、閉じたドアに背をあずけて、ようやく息を整えているというワケだ。
やれやれだ、と僕は思った。
今夜も、何とか最終電車に間に合った。

つまりこれが、僕の時計が正確な理由なのである。
僕の仕事は……、まあ、いいか。
これだって、得意になって説明するような仕事じゃない。
問題なのは、残業なんか当たり前で、立て込んでくると連日、終電のお世話にならなきゃならない、という事実だ。
家までたったの一駅なのだから、確かに歩いて帰れない距離ではない。

けれど、一日の疲れを引きずって数キロの道のりを歩く事を考えると、終電の時間を気にしながら歩く方がマシ、というワケ。
ともあれ、今夜は間に合った。
明日かどうかは、わからないけど。

閉じたドアに背をあずけたまま、飛び込んだ最後尾の車内を見回した。
ガラガラだ。
少し離れた席に女性が一人、座っているだけ。
この時間、この電車に飛び込むと、必ず座っている女性。
OLだろうか。

ひざの上の小さなバッグの上に手を置いて、僕の方など見もせずに、正面の暗い窓に視線を投げている。
桜色のスーツが少しくすんで見えるのは、彼女も疲れているせいか、それとも僕が疲れ果てているからか……。

僕は手近のシートに腰を下ろし、彼女を真似て、正面の窓を見た。
窓ガラスに重なって、二重写しのように僕自身の顔が写っている。
走ったせいで髪が乱れていたが、手を上げるのもおっくうで、僕はただ、疲れ果てた自分の顔を眺めていた。

「ふう」
背をあずけた時のクッションのきしみと同時に、僕は自分自身がもらした溜め息に苦笑する。
それが、あの女性へ向けた言い訳のように思えたからだ。
彼女はきっと、毎晩のように顔を合わせる僕が、たった一駅で降りていく事を知っているはずだ。

その、僅か数分の乗車をシートに座って過ごしてしまう自分を、無意識に正当化しようとしているような気になったのだ。
僕は、こんなに疲れているんです。
ほら、ね、溜め息が出ちゃうくらい疲れてるんですよ。
わかってくださいね、お嬢さん。

やれやれ、自意識過剰もイイとこだな。
ウンザリしながら天井を見上げた僕の耳に、聞きなれた音が飛び込んでくる。
空気の鳴る音。
僕が降りる駅の、その手前で、電車は地下トンネルへと潜っていく。
気圧と気流の変化が起こすその音が、僕への合図だ。

もうすぐ駅だぞ、とその音は告げていた。
でも、妙だな。
いつもより座っている時間が短いような気がする……。
僕が今の仕事を始めて、もう半年。
その間、ほとんど毎晩のように、この終電を利用しているのだ。
シートに腰を下ろしている時間は、体が覚えている。

となると、どういうコトだ?
いつもより早い速度で電車が走ってるってことか?
ダイヤでも変わったかな?
……やっぱり変だ。あの音が聞こえるころには、いつもなら速度がかなり落ちている。

なのに、窓の外を流れていく地下トンネルの壁は、速度を落としていない。
いや……それどころか、いつもより速くないか?
そう思った瞬間だった。

「おい! マジかよ!」
気圧の乱れに窓ガラスを揺らし、列車は僕の降りるべき駅を通過してしまったのだ!
見慣れたベンチが、広告のポスターが、そして、いつも僕が重い足をひきずって昇る階段が、目の前を猛スピードで横へと滑っていく!
僕は思わずドアのガラスに顔を押しつけ、遠ざかる駅を見送った。

「冗談じゃないぞ、おい! どうなってんだよ!」
僕の住む町が、家が、一日の疲れを癒してくれるべき風呂と一杯のビールを道連れに、みるみる遠ざかっていく。
僕はうめいた。
冗談じゃない。
おい! 全く冗談じゃないぞ。
せっかく終電に間に合ったと思ったら、駅を通過しちまうなんて。

息を切らして走った僕の努力は、どうしてくれる!
まだ乾いていない背中の汗を、どうしてくれる!
一人暮らしのアパートの冷蔵庫で待っている缶ビールを、どうしてくれる!
え? おい。
どーしてくれるんだよお!
それともナニか?

終電だと思ったのは間違いで、これはその前の快速か何かか?
だとしたら、次に止まる駅は、どこだ。
どこから歩いて帰れるのか?
それとも大枚はたいてタクシーか?
どっちにしろ、もう一度呟くしかない。
「冗談じゃないぞお……」
「どうかしましたか?」

背後からの声に振り返った僕の目に、桜色が飛び込んできた。
彼女だった。
初めて間近に見る彼女は、思っていたよりも、ずっと若い。
歳はハタチを少し過ぎたくらいか。
長く豊かな黒髪に縁取られた顔は、どこかあどけなささえ残している。
しまったなあ、と僕は思った。
格好悪いところを見られてしまった。


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