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神をも殺す力を封じ込めた禁断の棺。
オリュンポス最高の鍛冶屋ヘファエストスの槌が生んだパンドラの箱は、
如何なる知恵の持ち主であろうと、蛮勇の徒であろうとも踏破出来ない神殿の奥深くに封じられた。
神託という狂気のままにその神殿を作り上げたペイソス・ペルデス3世の亡骸は、その妻とともにあった。
クレイトスの行く手を阻む最後の扉の前に。
神々の命ずるままに子を、妻を手に掛け、遂には己の命すら捧げ、使命を成し遂げた男。
それはまさしく、己の生き写しそのものと言える人生だろう。

蛮族との戦いで敗北し、生き延びる為にその魂を戦神アレスに捧げた。
戦神のしもべとして、殺戮の衝動に任せ、戦いと征服に明け暮れる日々。
唯一、それを面と向かって諫めていた妻と娘…。
そして、拭う事の出来ない悪夢。あの夜から、解放された事は一瞬たりとも無かった。
それを為さしめたはアレスの謀略。この試練こそ、クレイトスの望みを叶える一筋の希望の光なのだ。
復讐と解放という、二つの望みを…。

クレイトスは何も言わずに、その男の妻の乾いた首を毟り取り、鍵穴へと押し入れる。
鍵を受け入れた最後の扉は、何の障害も無く開かれた。
振り向く事無く、最後の関門へとクレイトスは足を踏み入れる。
最奥に見えるパンドラの箱、それに手を伸ばす愚か者を滅ぼさんと立ちはだかる怪物達。
しかし試練の中で更に強く鍛え上げられたクレイトスにとっては、もはやそれらは障害たりえなかった。
容易く退けると、遂に箱の座する部屋の扉が開く。
クレイトスは歩を進める。床に描かれた、ゼウスに剣を向けるスパルタ人のレリーフを踏み拉いて…。

ゼウス、ポセイドン、ハデス…神々の長たる三兄弟を象った神像の前に置かれるは、禁断の力の収められたパンドラの箱。
クレイトスがそれに触れた瞬間に光が溢れる。大いなる力の片鱗は、歴戦の戦士すらも畏怖させた。
光の中から、アテナの声が響く。

「クレイトス、よくぞ試練を乗り越えました。
 パンドラの箱に辿り着いた人間は初めてです。
 アテネを救う時間はまだあります。
 街に箱を持ち帰り、それを使ってアレスを倒すのです。
 アテネに戻りなさい、クレイトス。
 戻って街を救うのです…」

声が途切れると同時に、部屋全体が鳴動する。頂上に作られたこの部屋ごと、神殿の入り口目指して下降しているのだ。
そして、長き道程の始まった部屋に戻って来る事でそれは治まった。
人一人は容易く入るであろう巨大な箱を押し、再び開かれた神殿の扉へ向かうクレイトス。

「パンドラの箱を、アテネに持ち帰るのです。
 箱なしでは、アレスを倒せません…」

数千年の時を経て、遂にパンドラの箱はその永き眠りから解き放たれた。
過酷極まる試練。それももはや、この箱を手にした今この瞬間に達成されたとすら言えた。
クレイトスは、戦いの神を倒す術を発見したのだ…。
箱を押す彼の口から、安堵の吐息が漏れた。

その瞬間の事だった。
遥かアテネの地で、アレスはクレイトスが箱を手に入れた事を知った。
建物ごと、ちっぽけな人間達を薙ぎ払う為に振るわれていた大剣の動きを止め、アレスは眼差し険しく、神殿の方角へと顔を向けた。

「愚かなクレイトスの奴…遂にパンドラの箱を見つけおったか。
 しかしお前は、それが開くのを見ずに死ぬのだ…!」

言うやアレスは、崩れ落ちた石柱を手に取った。先端が崩れ尖り、まるで手槍の如きそれを振りかぶる。

「それを見届けてやる…!」

低く唸る掛け声とともに、それは放られた。

どうしてそれが、遥か彼方、死の砂漠を彷徨うクロノスの背に括り付けられた、パンドラの神殿に居るクレイトス目指して投げられたものと、人間に想像出来ようか?

「さらばだ、クレイトス。
 お前は冥界の底で、永遠に朽ち果てるのだ…」


街を越え、砂漠を越え…アレスの放った死の運命は果たして、無防備に箱を押すクレイトスの胸を貫いたのだった。


神殿の入り口に磔にされ、流れ落ちる血を止める事が出来ぬままクレイトスは、死に瀕していた。
そして彼は、あの宿命の夜を思い出した。
今際の際にあっても、あの記憶は、あの光景は消えないのか。

…どうすれば、己の家族を殺めた記憶を消せるのか。

戦いの神により仕組まれた残酷な罠…。


          ◆     ◆


『妻が…娘が…
 何故…
 スパルタに居た筈では…』

アレスの命ずるまま、その小さな村を滅ぼさんとクレイトスは兵を率いてやって来た。
己を蔑ろにし、妹であるアテナを信奉する。それだけの理由で戦神は審判を下したのだ。
そして殺戮の嵐が巻き起こる。それは、クレイトスにとっては見慣れた光景、いつもの事である筈だった。
炎に包まれた村の奥にある神殿に押し入り、血と煙に覆われ視界のままならぬ中で剣を振るうクレイトス。
アレスより授かった、両腕に巻き付く鎖で繋がれた双剣ブレイズオブカオスは、遂にその二人を毒牙に掛けた。
他ならぬ、クレイトスの意志によって。
双眸から狂気という帳が払われた時には、全てが終わっていた。
物言わぬ亡骸となった妻と娘をかき抱き狼狽するクレイトス。
そして炎の中から、アレスの声が響く…。

『私が思い描いたとおりになったな、クレイトス。
 妻と娘が死んだ今となっては…
 お前には――――
 何も無い』

全ては、アレスの謀略だったのだ。
一欠けらの残された人間性を絶ち、完全なる神のしもべとする為の。

『お前は、更に強くなるだろう。
 しかし…その強さによって、滅ぶのだ…!』

だが炎が神殿を包み込むと、クレイトスは、真の敵が彼の命を救った神である事を悟った。
その神が、今まさに彼からすべてを奪い去ったのだ…。

『アァレェェーーーーーーース!!』

膝を突くクレイトスの慟哭が天に轟く。

『今夜からのち、そなたの恐ろしい行為はみなの目に晒される事だろう』

全てを見ていた老婆の言葉とともに、クレイトスの身体は白く染め上げられていく。

『そなたの妻と娘の灰は皮膚に纏わり付き、そして決して剥がれる事は無い…!』

その呪いによって、みなは彼が獣となった事を知った。
死んだ家族の灰により白く変わった皮膚を持つ――――

スパルタの亡霊の、誕生であった。


          ◆     ◆


最後に死を迎え、彼は失敗した。
磔にされた彼の瞳には、試練の果てに得た筈の希望へと集うハーピー達の姿が映っていた。
アレスの手下がパンドラの箱を奪い去ると、クレイトスの命は尽き、彼の呪われた魂は冥界の炎の中に落ちていった…。
そしてクレイトスは、冥界の川に飲み込まれた。強靭な彼もその強い流れには抗えず、永久(とわ)の眠りの地へ運ばれていった。
…そうなる筈だった。

だが、クレイトスには、永久の眠りに就く意志など無かった。
彼は生きたかった。
地上に戻り、使命を全うする為に…。
彼の尋常ならざる生への意志は、広大なるステュクス川に点在する、小さな足場の縁に手を伸ばさせた。
そこに、彼と思いを同じくする者が居た事など、何の障害にもなりはしない。
辛うじて足場にしがみついているその男は、自分の身体を掴むクレイトスを激しく罵った。

「離せっ、バカ!俺を川に引きずり込むんじゃないっ!」

その声はクレイトスの耳に覚えのあるものだった。だが、今はそんな事に気を払う必要も無かった。
いや、今でなくてもクレイトスにとってはそうだろう。

「地上にやり残した事がある…やり遂げるのだ…!」

躊躇無く男の背に剣を突き立ててそれを踏み越え、足場へ這い上がるクレイトス。
その足を男の手が掴んだ。
足元を見やるクレイトスと、見上げる男の視線が交錯した。

「!、また…!お前か!?」

彼は、命尽きようとしている者に手を差し伸べる聖者ではない。
神に与えられた試練を果たす戦士に過ぎないのだ…。
一瞬にして驚愕と絶望が船長の表情を彩った。

「うわあああーーーーーーーっ!!」

それを蹴り落とすとともに、冥界の底に響く断末魔が一つ増えた。
今度は一瞥をくれてやるクレイトスだったが、すぐに振り向くと、地上へと、生の世界へと続く険しい道に向かって走り出した…。
彼の前に立ちはだかるはハデスの忠勇なるしもべ達。それらは死と生の境界のごとく、決して乗り越える事の叶わない障害としてクレイトスに襲い掛かる。
いや…或いは、ハデスがクレイトスの死を望んでいるのかも知れなかった。
己の最愛の妻を殺したスパルタの亡霊に、その手で報いをくれてやる為に。
しかしその物語は、ここで語るべきではないだろう。
今クレイトスが挑んでいるのは、狂える戦神アレスを滅ぼす為の試練、それだけだ。
獄炎を纏うアンデッド、ミノタウロス、サテュロス。
そして地上目指して険しくそびえ立ち隔たるは、鋭く刃を携え回転する血肉の柱。
それらを前にしてすら、これまで培った力と経験は、クレイトスの歩みを止めさせなかった。
赤い空と海に挟まれた、骨で出来た白い道を駆け抜けるクレイトスの目には、絶えず冥界の底へと落ちていく亡者の姿など映りはしない。
無心で剣を振るい突き進む。ただ、前へと。
やがてクレイトスは、その場所へと到達した。
復活の道の終端。冥界の頂…地上に最も近い場所に。
そこには、天上から地の底へ伸びる一本のロープがあった。
迷い無くそれを手にし、よじ登るクレイトス。
人であれば誰もが避け得ぬ死の運命。しかし、今はまだその時ではないとクレイトスは思っていた。
まだ、やり遂げなければならない事があるのだから…。

ロープを登りきり、クレイトスはその穴から這い出でた。
そこは、アテネの街の中心部…アテナの神殿、の中庭だった。
しかしその姿はかつてクレイトスの目にしたものとは違っていた。心持程度でも取り繕われていた流麗な景観は今に至っては完全に破壊し尽くされ、
神殿は、街は、もはや死と虚無のみが支配する廃墟も同然の様相を呈していた。
そしてクレイトスを迎えたのは、あの墓掘り。みすぼらしい身なりでありながら、まるで何もかも知っているかのようにものを語り、
あろう事かクレイトスの墓を掘っているとのたまった老人。

「おぉ!クレイトス、ちょうど良かった。ほんの少し前に墓を掘り終えたばかりだ」

こうなるのが分かっていたかのような口ぶりで、墓掘りはクレイトスに声を掛けた。
クレイトスの困惑も当然の事だった。

「一体何者だ…!?」

「なかなか興味深い質問だ…」

綻んだ表情のまま言を返す墓掘りだったが、半壊した神殿の奥から響く倒壊音に顔を向けるや、言い聞かせるような口調でクレイトスに語り始める。

「だが今は急がねばならん。アテネが待っておる」

「どうやって分かった!?」

クレイトスの追求はしかし、実を結ぶ事は無い。墓掘りは神妙な物言いを続ける。

「お前を見守っている神はアテナだけではない…」

再びの倒壊音。クレイトスがそれに意識を向けた瞬間にはもう、目の前から墓掘りは消え去っていた。
呆然とクレイトスが一人佇む広場に、墓掘りの声が響く。



「使命を果たせ、クレイトス…
 そうすれば神々は、お前の罪を許すだろう…」



廃墟と化した神殿の中に屯す怪物達。かつてクレイトスも手を焼いたアレスの手下どもだが、既に彼の敵ではなかった。
かつてない困難な試練の道のりを踏破していく中で身に付けた力は、このアテネに存在するどの怪物であっても容易くねじ伏せる事が可能だろう。
だが、それを以ってしても神を滅ぼす事は叶わないことをクレイトスは知っていた。

「クレイトス…戻ったのね。…でも遅かった。
 アレスがアテネを…希望はもう…なくなった…」

かつてクレイトスに道を示したアテナの神官は、血溜まりの中で呻いていた。
それを見ても、クレイトスは走る。為さねばならない事がある。その為にここに来たのだから。

「アレスの勝ち…私たちの…負けよ…」

振り返る事はなかった。
省みる事も、その足を止める事も。
これまでの労苦の全ては、この先に有るものの為にあった。
クレイトスは死の砂漠を渡り、
パンドラの神殿の危険な罠を掻い潜り、
冥界から脱出した。
しかし、まだひとつ、やるべき事が残っていた。

神殿の裏、エーゲ海を見渡す断崖にクレイトスは立っていた。
戦神アレスの巨大な背が彼の目に映っていた。

「ゼウスよ!自分の息子の力を思い知ったか!
 あなたはアテナを贔屓しているようだが、彼女の都市は私の眼前で廃墟となった!!
 そして今や、パンドラの箱さえ私の手中にある!こいつを使って、オリュンポスを攻めてやろうか!?」

天に向かって喚き立てるアレスは右手に携えたパンドラの箱を掲げる。まるで玩具を手に入れ振りかざす子供の如く。
それが終わるや、ようやく気付いたようにアレスは振り向き、クレイトスの姿を認めた。

「クレイトス…冥界から戻って来たというのか」

その声音と眼差しには、ありったけの侮蔑と憐憫が込められていた。
弱きが故に自分に縋り、弱きが故に全てを失った愚か者。
アレスはクレイトスをそのようにしか見なしていなかった。
背を向けたアレスは天を指差し、ゼウスを罵った。

「これがあなたに出来る最良の方法か!?
 戦いの神である私を倒す為によこしたのは、
 この壊れた人間か!?」

瞬間、閃光が迸った。
クレイトスの投げたゼウスの雷霆が、アレスとパンドラの箱を繋ぐ鎖を貫いたのだ。
天を切り裂く稲妻によって浅瀬に落とされた禁断の箱は今、クレイトスの手にあった。
数千年の時を経て、パンドラの箱は遂に開かれた。
大いなる力が青白く輝く炎となってクレイトスを包み込む。それが治まった時、彼の肉体はアレスと同等ほどの大きさになっていた。
神々の力が解き放たれたのだ。
だが目線を同じくするクレイトスを前にしてもなお、アレスの声音と眼差しは愚者を哀れむそれであった。

「お前はただの人間に過ぎぬ。かつて私に命乞いをした日と寸分違わず弱いままだ」

クレイトスに恐怖は無かった。今まで戦った敵の中でも最も強大な力を持つだろう、戦神アレスを前にしても。
双剣をアレスに向け、かつての主への決別の言葉を口にする。その目には一欠けらほどの迷いも有りはしない。

「私はあの日と同じ人間ではない。
 私は、お前が作り出した…
 怪物だ…!」

眼前に佇むスパルタの亡霊が、本気で自分と対峙する道を選んだという事を悟ったアレスの目に狂気の光が宿る。

「お前は本当の怪物というものを知らないようだな、クレイトス…!」

地の底から響くような恐ろしい声とともに身構えたアレス。
そして、呻き声とともにその背から次々に鋭い剣が生え揃っていく。
その姿はまるで、脚の先に刃を携えた蜘蛛を背負うが如き様と形容できた。
赤熱に輝くたてがみと同じように燃え盛るそれをアレスは一斉にクレイトスに差し向ける。

「最後の稽古をつけてやろう!!」



戦いの神との決戦が、幕を上げた。



獄炎と灼熱を纏う大斧。
背から伸び、次々に襲い来る刃。
獅子を象った、炎を吹き上げる大槌。
最強の力を持つ戦神は容赦なくクレイトスに圧倒的な殺意を叩き付ける。

「お前は人間としての弱さを克服出来ぬ!!」

「これで精一杯か!?」

「家族の元へ送ってやろう!!」

それらは間違いなく、今までクレイトスの対峙した敵の中で最強の存在である事を証明していた。
そして、攻撃と同時に浴びせられるアレスの罵声は、確実にクレイトスという人間の本質を見抜いたものだった。
かつて自分の力を与えた忠実なしもべの全てを、アレスは熟知していた。
もしもクレイトスがあの夜の時のまま…アレスの言う弱い人間のままであったなら、クレイトスに勝ち目は万に一つもありはしなかっただろう。
しかし、アレスのもとから離れ10年間、彼は神々に与えられた想像を絶するような困難な使命の数々を一つとして漏らさずに果たして来た。
そのすべては、己が魂の救済の為に。
そして与えられた最後の試練。パンドラの箱を手に入れ、戦神アレスを打ち滅ぼすという、この試練。
それは、今まで果たして来たどの試練よりも困難な道程だった。
怪物ひしめくアテネの街。
永遠に広がる死の砂漠。
そして、狂気の建築家によって作り出された禁断の神殿に仕掛けられた罠、立ちはだかる敵の数々。
避けられ得なかった死の運命。冥界からの脱出。
クレイトスはその全てを乗り越え、この時、この場所へとやって来たのだ。
戦神アレスの前に立っていたのはもはや、弱きが故に全てを失った人間などではなかった。
そこに居たのは、神々を殺し、運命を覆す力すら持つ、スパルタの亡霊であった。
エーゲ海で繰り広げられる壮絶な神々の戦い。
スパルタの亡霊は海神の稲妻を、冥府の死霊を、王の雷霆を、そして混沌の双剣を振るい、戦神を少しずつ追い詰めていった。
永遠に続くとも知れない死闘の果て、狂える戦神とスパルタの亡霊が素手で組み合う。
戦神と膂力で張り合おうなどという愚行。だが、制したのはクレイトスだった。
手を振り解かれ体勢を崩した一瞬の隙を突き、アレスの肩に飛び乗ると、そのまま無防備な背中に剣を突き立てたのだ。
一刺し、いや二刺し!
深手を負い大きく怯むアレスに、それを見ていたアテネの住人達は目を剥く。人間が、戦神を倒すのか、と。

だがそれは、ほんの僅かに垣間見た儚い幻であった事を、彼らは知るのだ。

クレイトスに向き直ったアレスは、あまねく人間達を慄然とさせるだろう咆哮を轟かせる。
それは敗北の屈辱と憤怒に端を発するものなどではない事をすぐにクレイトスは知った。
アレスが身構えると、その手に青い光が溢れ、それはクレイトスを耐え難い力で引き寄せ飲み込まんと荒れ狂った。
堪らずに剣を地面に突き立てても、それはすぐに外れ、クレイトスとを繋ぐ鎖もろとも光の中に吸い込まれていく。
一つの剣だけでは、いよいよ勢いを増すその光の力には耐えられる筈も無かった。クレイトスは遂に、アレスの手の中に飲み込まれてしまった。

「…お前には、敵の倒し方を幾通りも教えた筈だ」

虚空を落ちていくクレイトス。そこでは、アレスの声だけが響いていた。

「肉体を焼き…骨を砕く。だが、精神の崩壊こそが、真の破滅なのだ…!!」

そしてクレイトスは虚空に浮かぶ小島に降り立つ。そこにあったのは、クレイトスにとって忘れがたい、決して消し去る事の出来ないあの光景だった。

「この場所がわかるかクレイトスよ。お前が最大の過ちを犯した場所だ…!」

かつて己が焼き尽くした小さな村。その奥に建てられていた神殿。
夢か現かも分からないままにクレイトスは、覚束ない足取りで扉に近付く。

「過去の行いを取り消せる機会があるだろう…」

クレイトスを10年間悩ませ続けた悪夢が、そこに実体化していた…。
過去が、彼の目の前にあった。
全てはこの悪夢を消し去る為に…その為だけに10年間、壮絶な試練の数々に挑み続けて来た。
扉に手を掛け、項垂れるクレイトス。
これは、アレスとの戦いに敗れた愚かな自分の見ている走馬灯に過ぎないのではないのか…。
だが、その思いは止める事は出来なかった。
遂にクレイトスは、扉を蹴破った。

そして、それは在った。
クレイトスが求め続けたもの。
永遠に失ったもの。

「…クレイトス…!?
 いったい何があったの…?此処は何処…!?」



最愛の妻と、娘の姿が、そこに在った。



「神々よ…これは現実か…?」

呟いてクレイトスは暫し呆然とする。
だがその時間は短かった。
クレイトスの目には、更におぞましき光景が顕現した。
神殿の壁、床に次々と生まれる闇の穿孔。そこから這い出でる怪物ども。
それらはクレイトスが永遠に失った、最愛の存在に刃を向ける。
かつて再会しその喜びを分かち合いながらも、引き換えがたい究極の選択を以ってして冥界に置いて来た筈の娘が叫んだ。

「お父さぁんっ!」

その怪物どもの姿は…白き肌と、赤い刻印、鎖で繋がれた双剣を携える…

スパルタの亡霊、そのものであった。



クレイトスに迷いは無かった。


アレス…!
お前に私の行く手を阻むすべは無い!
今度こそ…家族を守る!!



それは、地獄だった。
クレイトスが10年間、贖罪を求め続けた過ち。
一時たりとも解放される事の無かった悪夢。
その枷が今まさに血肉を得てクレイトスと、彼の家族に襲い掛かる。
敵を殺す戦い。己を殺す戦い。
救いを得る為の戦い。家族を救う為の戦い。
数え切れない怪物を斃してきた。
ミノタウロス、レイス、サイクロプス、ゴルゴン、バシリスク、ヒドラ、ケンタウロス、サテュロス…。
試練の中で、神々の座に名を連ねる者と対峙する事すらあった。
冥界の渡し守カロン、ハデスの妻ペルセポネ、そして戦神アレス…。

それらの戦いはまさしく児戯にも等しいものだったことをクレイトスは知った。

いつ終わるのか。クレイトスは10年間、それだけを考えて戦ってきた。
いつ終わるのか。クレイトスは今、その考えがどれほど甘かった事か身をもって理解していた。
双剣で切り裂き、魔法で蹴散らし、それでもなお、クレイトスの犯した罪の証は地の底から湧き上がるように止め処なく現れる。

「キャアッ!」

己が分身の携える刃が妻子を切りつける瞬間、あの悪夢が脳裏に閃光の如く蘇る。
振りかぶる双剣は噴煙を上げ、忌むべき過去を消し去ろうと足掻く。
だが、クレイトスに課せられた最後の試練は、あまりにも…残酷に過ぎ、乗り越え難き険しきもの。
それまでクレイトスの身体を突き動かしてきた怒り、憎しみ、苦しみ、哀しみの衝動のすべてが今、形となってクレイトスの背に重く圧し掛かっているのだ。
支えられる筈が無かった。
人知を越えた試練の数々を可能としてきたクレイトスの意志は、遂に折れ砕けようとしていた。
もし、このまま地に膝をつけば…
いっそ、そうしてしまえば…
はじめから、叶わぬ願いだったのだと思えば…
魂の救済を求め続けた10年間。すべては時の初めから、運命の女神に定められていた事だったのかもしれない。
クレイトスがあの日、蛮族に敗北する事、
アレスに助けを乞い、神のしもべとなる事、
戦神の名のもと、スパルタを率いて殺戮と征服の日々を送る事、
そして…家族をその手で喪ってしまう事…。
救済を求め続け、彷徨い歩いた果てに…その道が今、途切れる事も…。

そう思った刹那、手に握る双剣から、声が聞こえた。

『今こそ…神の力を解き放つのです…!』

女神アテナの声。この試練において常に道を示してきた勝利の女神。
拭い難い血に染まりきった己の魂に、救済の機会を与えてくれた女神の声…。
それを聞いた瞬間、クレイトスの思考を覆っていた諦念という名の霧は、一瞬にして消え去った。

「うおおおおおっ!!」

神の怒りがほとばしる。クレイトスの全身を包む青白い光は、パンドラの箱の中に込められた大いなる力とも区別の付かぬ、闇を消し去る希望の象徴。
アテナより授かった神懸りの力の発露は、クレイトスに無限大の魔力を貸し与える。
呼び寄せられたハデスの軍勢は一斉にクレイトスの悪夢に襲い掛かり、漲るポセイドンの雷光は拭い難き過去を一瞬で灰燼と化させせしめていく。
しかし、その力も長くは続かない。アテナの守護が尽きれば再びただのスパルタの亡霊へと戻るクレイトス。
そして未だに彼の悪夢は尽きてはいない。神殿を粉々に倒壊させるほどの力を発揮しても消し去る事の出来ない過去の過ちは、
更に容赦なくクレイトスと彼の守るべき存在に襲い掛かる。
だが彼は己が何をすれば良いのか、全てを理解していた。
傷付いた妻子をその両腕で抱きすくめるクレイトス。

「クレイトス…」

「お父さん…」

地獄よりも凄惨な戦いの中深く傷付いた肉体を省みる事無く。
残された数少ない体力を、家族に分け与えていく。
そう、あの時出来なかった事…
こうする為に使われるべきだった両腕はあの夜、この中にある命を奪ったのだ。
アレスの謀略によって…!

『今こそ、神の力を解き放つのです!』

再びその力はクレイトスの身に宿る。
青白い光がスパルタの亡霊を包んだ。


「おおおおおおおおおっ!!」


もはや、全ては決着していた。

クレイトスは奇跡を起こした。

彼は、家族を守った。


「クレイトス…!はやく帰りましょう…!」

すべての脅威が消え去り静寂が訪れた後で、ようやく妻は声を上げる事が出来た。
一時たりとも離すまいとその手に娘を抱きながら、クレイトスに懇願する。
戦神に作られた幻なのだとしても、それはクレイトスが成し遂げた快挙の証だった。

「見たかアレスよ…!一度は奪われたが、二度と手出しはさせん!」

剣を掲げ、このおぞましき演舞場を用意したアレスに向かって宣言するクレイトス。
しかしアレスの声は冷淡だった。

「家族を救う事は出来ぬぞクレイトス。お前は究極の力を求めて家族を捨てた!
 何かを得るには相応の代償を払うのだ…!」

それは簡潔に真実を物語る言葉だった。哀れなスパルタの亡霊の過去のすべてを。

「代償では無い…家族を、死なせたくなかった…」

あの夜に対する悔恨の念は決して消える事は無い。
クレイトスは項垂れ、力無く反論する。
弱く愚かな人間に対するアレスの憤怒に満ちた声が響いた。

「代償抜きで私の力がやれるものかっ!!」

クレイトスの全身に走る激痛。戦神に与えられた力が、宿主に反逆する。

「それにお前は、神である私を拒絶したっ!!」

かつて燃え盛る獄炎とともにクレイトスの両腕に巻きついた鎖が、刃となって彼の皮膚を切り裂いていく。

「もうお前には、力も、魔法も無くなる!!」

そして双剣が解き放たれる。本来の主の意志のもとに還った凶刃はスパルタの亡霊の周囲を毒蛇の如く飛び回った。
自らの目にする光景がどのような意味を持つのか、一瞬にして悟ったクレイトスは、激痛の治まらぬ身体に鞭打ち必死で手を伸ばした。
毒蛇の牙の向く先。求めてやまなかった、悔いてやまなかった贖罪の象徴へと。

「お前に残されたのは――――」

そして、数多の人間、怪物、神の血を吸ってきた魔剣は。

「死、のみだ!!」


再び――――彼の家族を、屠ったのだ。


「そんな…嘘だ…
 また、なのか…」

遂にクレイトスは膝と手をついた。
如何なる強敵を相手にしても有り得なかった光景。
スパルタの戦士は決して背から倒れない。戦いの中に生き、死ぬ瞬間まで敵を滅ぼす意志を失わない。
心砕かれ、戦士である事を喪ったクレイトスはもはや、敗北し死ぬ運命を受け入れる他無くなっていた。

「私に従っていれば良かったのだクレイトス!
 更に強くなれたものを!!」

そこは既に虚空に浮かぶ小島ではなく、アテネを囲むエーゲ海。
クレイトスは、完全にアレスの術中に嵌っていたのだ。
乗り越え得ぬ過去。拭い去れぬ悪夢。
アレスの見せた幻は、クレイトスの戦意を根こそぎ奪い去った。
アレスの言葉の通り、真の破滅とは、肉体の破壊ではなく精神の崩壊なのだ。
最強の肉体を支えるのは不屈の精神。それが折れた時、勝敗は決する。
アレスはゆっくりと大剣を振り上げ、不出来極まるかつてのしもべに引導を渡そうとしていた。



だが、クレイトスの運命は終わらなかった。

運命の女神の定めた、彼の辿るべき道。果たすべき使命。

それはまだ、途切れてはいなかった。



ふと顔を見上げたクレイトスの視線の先には、断崖に建造された、アテナを模した巨大な石像があった。
その石像の両手にしかと握られた黄金色の道も。
クレイトスが辿るべき運命を示すもの。
世界の初めから定められていた、彼の果たすべき使命。それを成す為の最後の力。

「あれは…!」

それともそれは、運命などではなかったのかもしれない。
誇り高きスパルタの戦士としての本能。戦いの神の姦計に嵌ってなお折れる事の無い、鍛え抜かれた鋼鉄の意志。
たとえ、運命の女神がこの時この場所で死すべき事を定めていたのだとしても…クレイトスは全てを諦め、死を受け入れていただろうか?

少なくとも、今は違った。

戦神の刃が振り下ろされる瞬間、クレイトスは駆け出す。
すんでの所で死の運命を逃れたスパルタの亡霊は、それを手にした。
アテナの石像の持つ、黄金の剣を。
そう、まだ終わりではなかった。
神々は、クレイトスに最後の切り札を用意していた。
剣を肩に背負い、アレスに対峙するクレイトス。

「私にはまだオリュンポスの神々がついている…。
 アレスよ、今こそ私の強さを見せてやる…!」

最後の決戦が始まった。
スパルタの亡霊が神より賜った黄金の剣が、戦神の振るう炎の大剣と鍔迫り合いを繰り広げる。
たった一本の剣で戦神を滅ぼすなど、出来る筈が無い。
誰もが思った。
戦いの中で得てきた神々の力の全てを奪われ、最後に残されたのは、所々に刃毀れを起こした長剣一本。
対する戦神の力は未だ健在だ。剣を掲げれば地の底から火山が噴き上がり、死者の魂を自在に呼び寄せ、
背から伸びる刃は一本たりとも欠けてはいない。それらは何の妨げも受ける事無くクレイトスに襲い掛かる。

しかし、クレイトスの敗北を予見する者は誰一人として居なかった。
何故か。
その理由は誰も理解出来なかった。
しかし、荒唐無稽の一語に尽きる言葉でなら、説明する事が出来る。

神の定めた運命だからだと。

「ぐうぅっ!」

やがて戦神は、遂に、かつてのしもべの力に屈した。
アレスが口を開く。それは呪いの言葉か、命乞いか。

「忘れるなクレイトス…お前を救ったのは私だ…お前が助けを求めた時に…!!」

「忘れるものかアレス…お前がどうやって俺を救ったか…!!」

クレイトスに躊躇は無かった。
剣を構える。全てが決着する時が来た。

「あの夜…私はお前を、最強の戦士にしようとした…!」

一瞬だけ蘇るあの夜の光景。
しかしクレイトスの視線は真っ直ぐに、アレスを射抜いていた。
そして、告げた。

「それは成功だな」

戦神の心臓は貫かれた。
断末魔は、エーゲ海中に響き渡った。
吹き出す血が、海を赤く染めた。
クレイトスは不可能を成し遂げた。
人間が神を倒したのだ。
アレスは息絶えた。
どうと斃れる戦神の死体。胸に穿たれた創傷が白く輝き始める。
そして、それは天へ向かって伸びていく。物言わぬようになったアレスの肉体を包みながら…。
やがて閃光と爆音がエーゲ海を包んだ。
狂える戦神。ゼウスの子。オリュンポス十二神の一柱。
人間の世界は、神の失われた衝撃と無関係ではいられなかった。
しかし、戦いは終わったのだ。
クレイトスの試練も。


アテネの街は守られた。そして再び栄えるだろう…。
今は業火の爪痕の著しい惨状であっても、そこに住む人間が居る限り街は滅亡を免れ得るのだから。



――――だがクレイトスは、そうはいかなかった。
神の助けを借りて、魂の再生を求めた彼に今…真実が、明かされる。
クレイトスは神像に呼び掛ける…。

「アテナ…あの忌まわしい悪夢が、まだ消えぬ…」

光を纏うアテナの神像がそれに答える。

「よくやりましたクレイトス…。我が兄が死んだとは言え、あなたに恩を感じています」

アテナの言葉は真実だった。

「あなたの罪を許すとは約束しました…それは守ります」

それが故に、クレイトスは真の絶望を知る事となったのだ。

「しかし、悪夢を消すとは約束していません…」

クレイトスは何も言わずに、それを聞いていた。

「神と言えども、あなたの忌まわしい記憶を拭う事は出来ないのです…」

クレイトスにはもう、アテナの顔を見上げる気力すら残っていなかった…。


          ◆  ◆  ◆


結局――――
過去の幻影を消す事は不可能だと知ったクレイトスは、エーゲ海を見下ろす断崖へと向かった…。
独り、小道を往くスパルタの亡霊。
永遠に失った家族。求め続けた救済。
長い戦いの果てに垣間見た希望は今――――消え去ったのだ。

全身に灰を被ったような白い肌、筋骨隆々とした体躯を持つその男の黒い瞳は今、深い絶望と悲しみを露に浮かべていた。

「オリュンポスの神々は、私を見捨てた…」

力なく紡がれた呟きは眼下に広がる大海のさざめきに吸い込まれていく。

「――――もはやこれまでだ―――――」

そしてクレイトスは、ギリシャで一番高い山から身を投げた。
十年におよぶ苦難、十年の絶え間無い悪夢…それが、遂に終わりを迎える。
死こそが、狂気から逃れるすべなのだ。



―――――クレイトスの運命は、そこで尽きなかった。
神々には、別の思惑があったのだ…。
水面を突き破り、海の底へ沈んでいく筈の身体がこの世ならざる力によって妨げられる。
やがて羽根が舞い上がるが如く、クレイトスはその身が地上へと引き上げられるのに気付いた。
そして、断崖の頂上へ降り立つ。そこに佇むアテナの神像が口を開いた。

「あなたはまだ死ぬべきではありません…。
 神々は、かような大業を成した人物が、自ら死ぬ事を許しません。
 アレスは残忍過ぎました…彼の行為を止めねばなりませんでした。
 しかし、彼のいない今…オリュンポスには、新たな戦いの神が必要なのです」

断崖に築かれた祭壇。それが今、扉の如く左右へ開け広げられ、その奥からは眩く輝くオリュンポスの領域が顔を覗かせていた。

「この階段を上りなさい…あなたの未来が待っています…」

振り返るクレイトス。陽の色に染まったエーゲ海と、何も変わる事無く打ち寄せる白波…。
そして、神の血に染まった黄金の剣が、浅瀬に打ち捨てられているのを見た。
呪われた過去を断ち切るべく振るった力も、今となっては何の意味も持たない事を知る。
まだ悪しき過去に悩まされている。…しかし神々は死なせてくれない。
死という永遠の解放すら許されない…それが己の犯した罪に対する罰だというのだろうか。

「あなたの戦いは終わりました、クレイトス。
 旅もここまで…この階段を行きなさい。
 オリュンポスの神々の元へ…」

それを拒絶する事も出来たのかもしれない。
しかし、他の道を歩こうという思いはクレイトスには残っていなかった。
クレイトスは階段に足を掛けた…。


すべてが黄金によって彩られた絢爛荘厳たるオリュンポスの神殿…。


その最奥に、クレイトスが手に入れたものがあった。


新たなる、戦神の座…。




クレイトスは何も言わず、そこに腰を降ろした…。




それ以来ずっと…

その理由がどうであれ…

人間が起こす戦いには、

かつて神を倒した人間の眼差しが向けられている…

彼らは、新たなる戦いの神…

ゴッド・オブ・ウォーとなったクレイトスに、

操られているのだ…







GOD OF WAR

END...














...KRATOS WILL RETURN...




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