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「おーい。サンチョおお。……ベルギース!……」
 霧の中を歩いていた。
 ひんやり湿った白いヴェールが、頬を撫で、耳をくすぐった。
 脚の運びに従って、霧は割れ、渦を巻き、ぶつかりあってきらきら輝く。行く手の木々や岩崖が、つと隠れてはまた覗く。
 匙ですくったら食べられそうな濃い塊がいくつも谷の縁から這い上がり、解けだした糸巻きのように音もなく流れ出した一条が、遥かな行く手を横切ってゆく。
「……おーい。みんなどこ……」
 言いかけて、彼は黙りこんだ。もやもやした何層もの壁の向こうのどこかしらで、いま、何か喉を鳴らさなかったか? バサリと力強く、搏かなかったか?
(――敵)
 息を殺し、耳をすます。何も鳴かない。何も搏かない。凝らした瞳に、霧がからかうようなくちづけをして通り過ぎる。張り詰めた静寂が白くぼやける。
(みんな死んでしまったんだろうか。魔物に食われてしまったんだろうか)
 ざわめきはじめた心臓に、こめかみが冷たく痺れる。
(もう誰も……誰もいないのか?)
 革靴が泥を踏む。歩き続けているうちに水辺に達していたらしい。霧に覆われた湖を囲む谷崖の隙間に、まばらに星を浮かべた乳色の空が見える……いや、違う。あれはりんごだ。りんごの白い色。甘く優しい、懐かしい匂い。蹲る霧の塊をふと風が吹き分けると、果樹庭の彼方に奇妙な建物が姿を現した……ごつい傘を持った巨大な茸の群れのような、円柱に支えられた高楼……古めかしい赤石造りの異境の神殿。
(助かった!)
ほっとしたとたん、彼はよろめき、膝をつく。
 と、花がひとつ、枝を離れて落ちてくる。いや、それは、長い髪をした娘だ。走ることを覚えたばかりの鹿のような愉しげな足取りで、軽やかに斜面を下ってくる。瑞々しいりんごの香りが、貴婦人が座るとき、ふんわり広がるドレスの裾のようにあたりにあふれ、彼の顔にも降りかかった。
 清楚な白い服。透き通るように白い肌。すべらかな額を、赤銅色の細い飾り紐が真一文字に横切っている。
(巫女?)
 地味というには美しすぎる、華やかというには控えめすぎる。……なんて愛らしいひとだろう……あまりまじまじ見つめたためか、娘は瞳を逸らし、頬を赤くした。彼は微笑もうとした。怪しいものではない証拠にきちんと名乗ろうと、唇を開きかけ
 ――あっ――
 緞帳を切って落としたかのように景色が変わった。また、戦いの場に放り出されていた。
 わぁぁぁっ。わぁぁぁっ。喚声、雷鳴、人馬の轟き、響きわたる進軍合図の鼓笛の音。先陣を切って走りこんでいった数騎が、無残な肉塊となって四散する。血しぶきの陰からわらわらと沸き出してくる異形どもの軍勢。飛ぶもの、這うもの、巨大なもの。獣顔のもの、ひとつ目のもの、双頭の蛇、猛禽、爬虫……。
(魔物ども!)
 ……どいつもこいつも、にたにたと笑い、牙を剥き、顎からよだれをしたたらせて歓喜している。彼の血で渇きを癒し、肉で飢えを満たすつもりだ。……そうだ。こいつらだ。ほんとうの夜明けが来る前に、こいつらは必ずきっとやって来て、そして。
 目の前のいっさいがカッと真っ赤に燃え上がり、死の冷たい手が降りてくる。闇が世界を覆いつくし、凄まじい痛みが彼の顔を斜めによぎる……。

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