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ガラスの仮面

― 第1巻 千の仮面を持つ少女 ―


北島 マヤ(13歳)は 一見 平凡な少女だった
けっして美少女ではなく 成績もよくはなかった
父親はなく 母親は小さな中華料理店の しがない住み込み店員
いったい誰が…
そう…この小さな少女の胸に 熱く激しく燃える炎のことを…
いったい誰が 知っただろうか…?

横浜 中華街の裏通りにある 万福軒
マヤが、息を切らして帰ってくる。 「ただいま!」
帰りを待ち構えていた、店員をしているマヤの母(春)が、怒鳴った。
「なにグズグズしてるんだい!学校終わったら、さっさと帰っておいでって言ったろ!」
「まあ、いいじゃないか、春さん。マヤちゃん、出前頼むよ。」
店の大将が、オカモチを出して言った。
あわただしく着替えるマヤ。 「はあい。」
「南北映画館まで、ラーメン3つね。」
「南北映画館!?」 マヤの顔が、輝く。
喜んで、オカモチを持って飛び出して行くマヤ。 「いってきまあす〜」
「だめだよ、おまえさん。あの子、映画館の出前だけはダメだって言ったろ!」
おかみさんが、大将にそう言ったが…?

南北映画館 『伊豆の踊り…』が今は、上映されている。
マヤは、事務所にラーメンを届け、その足で、ホールをのぞき見る。
がら空きの客席…マヤは、そっと中へ入った。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ…ね。すぐに帰るわ。」
そう自分に言い聞かせながら、スクリーンに見入るマヤ。
「そうよ…ちょっとだけみたら、すぐに帰るんだから…。」
大きなスクリーンに映し出される、美しい女優…
素敵な男性との、恋を描いたストーリーのようだ。
…しばらくして、幕。
結局、最後まで映画をみてしまったのだった。
「ああ…よかったなあ!いいなあ、映画っていいなあ〜。」 一人、余韻に浸るマヤ。
ふと見ると、客席の前の方に、黒ずくめで、髪の長い婦人が座っている。
(あら?あの人、また来てる…何者だろ…?) マヤは、前にもその婦人を見たことがあるらしかった。
「ああっ、いけない!出前の途中だったんだ!」

「なんて子だろうね、まったく!冗談じゃないよ、出前に1時間半も!あとの出前はどうすンだよ!
役に立たない子だね、まったく!!」 怒る、おかみさん。
マヤは、黙って下を向いた。
「すみません、おかみさん。きつく言っておきますから。」 横から謝る、春。
「どうせ、あたしの言うことなんか、ばかにしてンだろ!
この子ったら、何度言ったって言うこと聞きゃしないんだから!」
後から後から浴びせられる、おかみさんのお小言…
しかし、それよりマヤは、そこから見える茶の間のテレビが気になってしかたがなかった。
時代劇が、映っている。
「いいかい、今度こんなことがあったら承知しないからね!わかったね!マヤちゃん!」
そんな言葉、もう、マヤの耳には聞こえていない…
すっかり、テレビの画面に夢中だ。
「この子は、また…!杉子!テレビ消しておしまい!!」
びっくりして、茶の間から顔を出す、この店の娘、杉子。

店の2階 マヤと春の部屋
テレビは…見当たらない。
マヤが、ボタン付けをしている。
「あいた!」 針で、指を刺すマヤ。
それを見て、春は、心配するどころか、マヤをなじった。
「また指ついたのかい?マヤ。まったく不器用な子だねェ、
ボタンひとつ、満足につけられないのかい!ツラはよくないし、何のとりえも無い子だよ、ほんとに!
死んだオヤジに似たのかね、我が子ながら、あいそがつきるよ。」
…悲しそうに、下を向くマヤ。

マヤが、階段を降りてくると、また茶の間のテレビが見える。
今度は、喜劇のようだ…画面では、おばあちゃんが、ゴーゴーを踊っている。
足を止めて、テレビをそっとのぞくマヤに、杉子が気付いた。
「マヤったら、またのぞき見してるわ!いやな子!」 ピシャッ!と、障子を閉める杉子。
(みたいな…ああテレビみたいな…!あの続きどうなるんだろ…?
他にどんな番組やってるんだろ?みたいな!みたいな!…………そうだ!)
マヤは、2階の窓から屋根へ降りると…
ひと屋根むこうのアパートの、13号室の窓をのぞきこんだ。
テレビがついている! 「やってる、やってる!」
すると、その部屋の奥さんが、屋根の上のマヤに気付いて…
「きゃあ!マヤちゃん、何してんの、そんな所で!」 思わず叫んだ。
「わっわっ!」 驚いて、屋根から落ちるマヤ… 「あれえー」
13号室の玄関
「そんなにテレビがみたいのなら、言えばいつでもみせてあげるのに…
さ、遠慮しないで入りなさい。」
やさしく、マヤを迎え入れてくれるご主人。
「は、はい…」 真っ赤な顔で、申し訳なさそうなマヤ…怪我はしていないようだ。
「さ、ケーキ用意しておいたのよ、おあがんなさい。」
「わーっ!おいしそう…うれしいわ、ありがとう、おばさん!
家の母さん、ケーキなんか買ってくれないの、うわあ、おいしそう!」
13歳の少女が見せる、屈託のない笑顔…ケーキを一口、口に運んだマヤ。
「わあっ、生クリームがおいしい!」
その時、ご主人が、テレビのスイッチを入れた!そのとたん…
マヤは、ケーキののったお皿をテーブルに置き、食い入るように、画面を見つめる。
「マヤちゃん…マヤちゃん、ケーキ食べないの?」
マヤには、全然聞こえていない。
「マヤちゃん…」 「どうやら、ムダのようだな…」
「本当に好きなんだねえ、この子は…」
13号室の夫婦は、半分あきれたように…それでもやさしく、マヤを見ていた。

クリスマスの飾りつけで彩られた商店街
オカモチを提げて、マヤが歩いてくる。
ふと、映画館の前で、足をとめるマヤ… 『雪の祭』と書かれた看板がかかっている。
「わあ!新しい映画やってる。わあっ!姫川歌子だって!大女優だわ!
わあ、わあ!おもしろそう!……あ、でも、よその出前の途中だっけ、
ラーメンにギョウザ早く持って行かないと。」
「ちょっと、あんた、万福軒さん、出前なら、早くお入りよ。」
事務所から、勘違いして掛けられた声に、
「え?あの…今日は別の…別の…」
そう答えながら、映画を見たい!…そんな気持ちを押さえられなくなるマヤ。
フラフラと、ホールに入って行く… (ちょっとだけよ、ちょっとだけ…)
やはり…いつのまにか、夢中で映画に見入ってしまった。
がちゃん!足元に置いておいたオカモチに、誰かがつまずいた。
ドンブリから、こぼれるラーメン!!
「ああっ!ラーメンが!しまった、出前の途中だったんだ!」

バシッ!ビシ!バン!! 「きゃああ!」
「ろくでなし!出前の途中で、映画館に寄り道するなんて!
お客さんに、どう言い訳すりゃいいんだよ!なんて子だい!まったく!」
烈火のごとく怒り、マヤをなぐるおかみさん。
「ごめんなさい!ごめんなさい!もう、しませんから…」
「いつもそんなこと言って、だますんじゃないか、にくったらしい子だね!
おまえみたいな子は、ろくな人生歩みゃしないよ!」
「もう!この子は母さんに恥ばかりかかせて…出てお行き!」
バン!今度は春が、マヤの横っ面を、思い切りたたいた。
みかねた大将が、言った。
「まあ、おまえも春さんも、ちょっと気を静めて。近所迷惑だよ。
だけど、なんだってまたそんなに、映画やテレビの芝居が好きなんだい?」
大将の問いに、それまで、涙でぐしゃぐしゃだった顔を、一変、きらきら輝かせて
マヤは、答えた。
「なんだか、わからないんだけど…画面を目にしたとたん、何もかも忘れてしまうの…
見ている間は、役の人物になってしまうみたいで、自分のことを思い出さないの。
ぶきっちょで、みっともないあたしなんかじゃなくて、画面の中のヒロインみたいな
気持ちに、なっちゃうの…」

公園
マヤの周りに、たくさんの子供達が集まっている。
「この間みたのは、どんな映画だったの?マヤお姉ちゃん。」
「うん、あのねえ…」
マヤは、時々ここへ来ては、子供達に、みた映画の話をしやっているようだ。
子供達も、それを楽しみにしている様子。
「と、そこに大親分が出てきてね、『おう!てめェ、なめちゃあいけねェぜ!
このおれ様を何だと思ってやがンでェ!』」
そこへ、偶然通りかかった、一人の女性…
彼女は、以前、マヤが映画館で見たことのある、黒ずくめの婦人だ。
婦人は、木の影に隠れて、マヤの様子を見ていた。
マヤは、身振り手振りをまじえ、それぞれの登場人物になりきっているかのように、
子供達に、話をしてやっている。
「そこで、キップのいい姉御が、『ふん!おまえ人間だろ、それともブタかい?』
『なんだと、このアマ!』『あはは…ああ、わかったよ、ブタの親分かい』」
それを見た婦人が、息を呑む!!! そして、思わず木陰から飛び出した!
「あ、あなた…あなた名前は…?」
マヤに、突然、話し掛ける婦人…その顔は、喜びとショックに打ち震えている。
「さがしていたのよ…あなたのような人を、長い間…」
婦人が、マヤの腕をつかむ。 「は、はなしてください!」
「そうよ、あなたよ…あなたならやれる…あなたなら…。ね、名前は?どこに住んでいるの?」
その時、風が、婦人の長い黒髪を揺らし、髪の毛で隠していた顔の右半分があらわに…!
それは、左側の美しい顔とはまったく違う、焼けただれたような醜いものだった。
「きゃああ!」 動揺して、走り去るマヤ。 (何だろ、あれ…変な人…!)
「あっ、待って!お待ちなさい!
私の目に狂いがなければ、あの少女は…千の仮面を持つ少女…
みつけた!ついに…!私の宝…!!」

万福軒
マヤが、じっと、何かの記事を見ている。
ブロンドの巻き毛に豪華なドレス…それは、舞台公演のPR記事だった。
(『椿姫』…大女優 姫川歌子…東京 大都劇場…舞台劇…)
「舞台…『椿姫』…ああ、どんなんだろう?みたい、みたいわ…!
舞台劇なんて、一度もみたことないんだもの…こんな劇場なんて、ものすごく高いんだろうな…
ああ、きっと券なんか買えっこないわ…でも、みたい…」
その様子を見た杉子が、意地悪く言った。
「『椿姫』ですって、あら、あたしその券持ってるわよ。1月2日にボーイフレンドの松本君から
行こうって誘われて券をもらったのよ。ほほほ、どう、うらやましい?」
チケットを、見せびらかす杉子。
「杉子さん!く、ください!あたしにその券!なんでもします、なんでもしますから!!」
瞳をきらめかせて、懇願するマヤ。
と、電話に出たおかみさんが、突然怒鳴った。
「ええ!?アルバイトの学生が、急に来られなくなったあ?冗談じゃない!
明日の大みそかは、かきいれどきなんだよ!」
― 12月31日の大みそかの夜、万福軒は一年中で一番忙しい夜を迎える。
万福軒は、年越しそばやに身を変えて、夜の12時過ぎまで、
そば作りと出前に大わらわするのである。
大将とおかみさんと料理人が一人、そば作りにかかりきりで、
店の客相手は、マヤの母、春が一人で奮闘、
出前は、娘杉子とアルバイトの学生とマヤが手伝っていた。 ―
「冗談じゃないよ、予約注文が80軒、その日の臨時注文が約40軒、
杉子とマヤの二人で、どうして120軒もの出前がさばけるっていうんだい!」
怒って、電話を切るおかみさん。
そこで、杉子が、さらに意地悪そうな顔で、マヤに言った。
「ねえマヤ、あんたにこの券あげてもいいわよ。」 「ほんと!?」
「ただし、年越しそばの出前全部、あんたがやれたらね。」
「!!全部!?」
「それもよ、12月31日中に終わらなきゃダメ!つまり、横浜中の船の汽笛が、
夜の12時に鳴り終るまでによ!」
― 新年を前にしたこの夜、横浜港に停泊中の船という船全部が、除夜の鐘の代わりに
あらん限りの汽笛を鳴らす。これは、大みそかの横浜の名物にもなっていて、
時計が12時をさす瞬間まで、続くのである。 ―
「いいわ!やります!あたしやります!出前全部!!」
「マヤちゃん!」 「バカなこと言うんじゃないよ!一人で120軒も出前できるわけないだろ!」
おかみさんや春の言うことなど、耳にも入らないマヤ。
「あたしやります!だから!!だからきっと券ちょうだいね!きっとよ!!」
マヤの気迫に、ドキッとする杉子…

そして、12月31日…
「いってきまあす!」 笑顔で、出前にいくマヤ。
「はりきって出ていったぜ。」 「フン!どうせ途中でネをあげるわよ!」
できるわけがない!…二ヤッとする杉子。
マヤは、次々と出前をこなしてゆく。
「毎度!万福軒です!」 「えらく早いのね…」
「ちわー、年越しそばです!」 「まだ、晩メシ前に?」
「まいど!8人前持ってきました!」 「あ、あんた一人で?」

「ただいま!次!!」 「全然休まなくて、大丈夫かい?」
心配そうに、オカモチを渡す春…マヤの手は、もう真っ赤だ。
「はあ、はあ…いってきます…」 マヤは少しよろめきながら、それでもまた出てゆく。
「やるわねえ、あの子…」 「そんなに芝居がみたいのかしら?」 青ざめる杉子。
やがて、横浜の港に、雪が降り始める…
「ゼイ、ゼイ…」 だんだん息が荒くなってきた。しかし、マヤは休まない。
「万福軒の、あの小さな子、一人で出前してんだとよ。」
「冗談じゃねェよ、俺達、大の男が3人でネをあげてるっていうのに!」
「しかし、よく続くぜ、みろよ、もう70軒めだってよ!」
他の店の出前持ちも、信じられないといった顔つきで、マヤを見ている。
11時…店に帰ったマヤが、初めてひざをついた。おかみさんが、慌てて支える。
「い、いいよもう…晩ご飯も食べずに、この子は…
あと1時間で、どうやって10軒も、まわれるんだよ…」
しかし… 「次、10人前でき…」 次の分が出来上がると、フラフラ立ちあがるマヤ。
「いいよ!もうおやめ!おやめおやめ!やめとくれ、マヤ!」 春が叫ぶ!
(腕がしびれる…肩が抜けそう…足が痛い…)
それでもマヤは、止めなかった。
(椿姫…!みるんだ!みるんだ!…どんな芝居なんだろ…?
行くんだ…行くんだ大都劇場へ…!!)
そう考えたとたん、夢遊病者のようだったマヤの瞳に力がこもった。
真っ赤に腫れ上がった手で、オカモチをもう一度握るマヤ… (どんなことをしても!!)
なにかにとりつかれたように、出前を続けるマヤ。
「おやりよ、杉子、券の一枚くらいおやり…」 おかみさんの言葉に、血相を変える杉子。
「い、いやよ、松本君からデートに誘われたのよ!いやよ…12時まで、まだ間があるわ!」
「そんなにいやなら、なんだってあんなこと言ったんだい!このバカ!」
しばらくして、外で何かが倒れる音がした。 「なんだ?」
扉を開けてみると、倒れたマヤが、地べたに這いつくばっているではないか!
「マヤちゃん!!」
「ゼイ…ゼイ…あと2軒、あと2軒で終わり…早く…つぎ…次のを…」
うわごとのように、つぶやくマヤ。
「お…お、マヤ…」 「マヤちゃん…」 とても見ていられない春とおかみさん。
その時!!
『ボーーーーッ』 船の汽笛が、鳴り始めた。…あと、10分…
「汽笛!あの汽笛が鳴り終るまでよ!鳴り終るまでに、あと2軒、
1軒でも残ってごらん!券はあげやしないから!」
あまりの意地の悪さに、おかみさんは杉子を怒鳴りつけた!
「杉子!!」
「いやよ!松本君と約束したのよ!一緒に行くって!一緒に!」
「次を、早く!」 そんなことにはかまわず、次のそばを催促するマヤ。 「はやく!!」
もう、痛みも、寒さも、疲れも…何も感じなかった。
ただ、汽笛だけが、マヤの耳に響いていた。
あと、2軒…あと2軒で、終わる。そうすれば、『椿姫』が見られる!
マヤは、走った。走って、走って…走った。
「つぎ!」 この時、3分前…
チッチッチッチッチッチッチ…
ボーーーーーッ…
「万福軒です!年越しそばの出前を!!」
ボーンボーンボーン…… 時計が、新年を告げた。

「はい、はい…ええ、そうですか、無事12時にちゃんとそちらへ…
わかりました、これからすぐ迎えに行きます…」 電話を切るおかみさん。
「驚いた子だよ…出前はちゃんと12時に間に合ったそうだ…
そして、そのまま出前先で倒れて、休んでいるそうだ…」
「おおお…」 顔を覆う春。
「だけど、恐れ入ったねえ…まさか、ここまでやるとは思わなかったよ…
何があの子を、そこまで動かしたのかねえ…」
おかみさんの顔も、青ざめている。
杉子は、予想外の結果に信じられないといった様子で、店を出て行く。
「どこへ行くんだい、杉子!券はちゃんと、あの子にあげるんだよ!杉子!!」
「うるさいわね!山下公園で、松本君が待ってるのよ!」

山下公園
ボーイフレンドの松本君と歩いている杉子の前に、マヤが春に支えられ、おかみさんと一緒にやってくる。
「杉子さん、あたし…あたし終わったわ、12時にちゃんと…」 フラフラ杉子に近づくマヤ。
「マヤ…」 杉子が、一瞬、青ざめる。
「『椿姫』の券、ちょうだい…約束だったでしょ…」
「マ…ヤ…」 震える、杉子…
「あたし、行くの『椿姫』みに…あたし、舞台のお芝居なんて、はじめて…」
手を差し出しながら、杉子にヨロヨロ近づいてくる…マヤの気迫は、怖いくらいだ。
「お、おおお…」 言葉を詰まらせる杉子に、松本君が…
「杉ちゃん、『椿姫』は、お正月にぼくと…」と、言いかけた。が…
「い、いいわよ、あげるわよ、なによこんな芝居の券の1枚や2枚…
さあ、うけとりなさいよ…さあ!」
杉子は、チケットを取り出し、マヤの方に出しかけて…
その手を上に挙げ、パッと手を開いた!
風に、飛ばされるチケット…あっという間に、海の中へ!!
「券が…『椿姫』の券が!あたしの券ー!!」
叫ぶ、マヤの横で、冷たく杉子が言った。
「ふん…あたしのせいじゃないわよ。か、風のせいよ…
あきらめなさい、あんたには観劇なんてぜいたくよ…
たかが、出前持ちの子が、なまいきよ…」
しかし、マヤの執念は、そんな言葉をも寄せ付けはしなかった。
ザバーン!マヤは、真冬の海に、何の迷いも無く飛びこんだのだ!
ただ…ただ、チケットの飛んでいったあたりを目指して…。
「きゃあああ!マヤー!」 春の叫び声に、人々が集まってくる。
「やめて!やめておくれよ、死んじまうよマヤ…
誰か!誰かあの子を、とめておくれ!!」
マヤは、夢中で泳いだ。『椿姫』のチケットを拾うために!
そして、やっとのことで、沈む寸前のチケットをつかんだのだった!
助けに飛びこんだ男性に支えられ、海から上がってくるマヤ。
「ハアハア…ひろった…拾ったわ券…あたしの…あたしのよ…」
マヤは、寒さなど感じていないかのように、笑顔で、にぎりしめた券を見つめる…
「いける…いけるわ、これで…」
それを見た杉子… 「異常…異常だわ、この子…」 背筋が寒くなるのを感じるのだった。
「いける、これで『椿姫』をみに…いけるわ!」
マヤは、『椿姫』の舞台をみにいける喜びで、あふれる涙を止められずにいた。
青ざめてマヤを見ている、春がつぶやいた…
「芝居の券たった一枚のことで、こんなに夢中になるなんて…この子は将来、
いったいどんな人生を歩むんでしょうね…?ねえ、天国のお父さん…」
チケットをにぎりしめ、びしょ濡れのまま泣きじゃくるマヤ…
「いける…これで『椿姫』をみにいける…『椿姫』をみに……」

うっすらと雪化粧をした木々の間から、その様子を黙って見ている
黒ずくめの婦人…


― つづく ―

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