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舞-HiME 小説版



終幕 君が空だった


 朝の鐘が鳴っていた。

 奈緒のは夏の名残の暑さに辟易したような顔で、通学路を行く。
 道の脇には向日葵の花がまだ元気に咲いていた。
「夏休み、どうだったのよ」
 奈緒は隣を歩く命に聞いた。
「楽しかった! 兄上と海に行ったんだ!」
 あいつと?
「ふうーん……」
 眼帯がとれた奈緒の顔には、もうあの醜い傷はない。
「そういえば、休み中に奈緒を見たぞ」
「え」
「お母さんと一緒だった」
「…………」
「すごく楽しそうだったから声をかけなかったんだ」
「そう……」
 なんだか照れくさそうな顔をした奈緒は、話を逸らそうとして別の話題を振る。
「あー今日も奉仕活動が面倒ねえ」
「奉仕活動?」
「教会。シスターがおめでただからさ、私が深優が代わりにやってんの」
「おめでた……」
「赤ちゃんが出来たってこと」
 命が目を丸くする。
「驚きだな……」
「なにが?」
「両方だ。シスターの赤ちゃんと奈緒の奉仕活動……」
「あんた口が達者になったんじゃない……」
「大人になったんだ!」
 むきになって命は反論したあとで考え込む。
「しかしまてよ……シスターはお母さんになるのか?」
「そうだよ」
「で、奈緒もシスターになるのか? ……ということは奈緒もお母さんに……」
「……安心したわ」
「なにが」
「あんたが……ば」
 バカと言おうとしてあわてて口をつぐむ。友達には言うには不適切な言葉だ。
「……面白いやつで」
「そうか?」
 きょとんとした顔で命は奈緒を不思議そうに見つめる。
「シスターはりきっちゃって名前までもう決めてんの」
「名前?」
「……ありさ、だって」
 命がその名前を何度も口の中で呟きながら思い出す。
「おお!」
 そんな名前をした、金色の髪の小さな少女がいたことを。
「そうか! うん、いい名だ!」
 そんな会話を交わしていると校門が見えてきた。二学期初日だというのに、もう執行部がはりきって服装チェックをしている。
「はいはい! そこ!」
 腕章をつけた雪之が、まるで別人のように怖い顔で奈緒を睨んだ。
「服装が乱れてます! スカートがちょっと短い!」
 ッチ……眼鏡のくせに……。
 奈緒が舌打ちする。
「いいんじゃないの? 雪之」
 雪之に部長の座を譲ってから少し丸くなった珠洲城遥が、助け舟を出すようにそう言ったが、雪之は断固として譲らない。
「だめです! 私が執行部長になったからには――あ!」
 雪之が目敏く一組のカップルを見つけて注意する。
「そこ! 不純異性交遊はいけません!」
 日暮あかねと倉内和也は、お互いに目を合わせると示し合わせたかのように、叫んだ。
「私たちは清く正しい交際です!」
 雪之と彼女たちは火花を散らして睨み合う。
「朝からはりきってますねえ」
「あ、会長おはようございます!」
「おはよう」
 挨拶にまぎれてあかねと和也は立ち去る。
「あ、ち、ちょっと!」
「どいてどいて!」
 飄々とした声が、あわてる雪之たちの輪の中に飛び込んでくる。
「杉浦先生……」
 碧の服装はミニスカに自転車。
「なんですの……杉浦先生それ」
 教師とは思えない服装に、遥が引きまくる。
「え? いや、今日学校終わったらちょっとデートだから」
「張り切りすぎですわ……」
「いや、あれよりマシじゃない?」
 碧が自分の後方を親指で指す。
 そこには、
「なつき」
 黄色いドゥカに乗ったなつきを見つけて静留がゆっくりと近づいていく。
「おはよう……静留」
 にっこりと微笑み、静留が言う。
「なつき、ちょっとあとで生徒会室まで来てもらえます?」
「なんだ?」
「なんだ……じゃありません。バイクは校則違反です。あと、その制服……ライダースーツは許可できまへんな」
 なつきはため息をついて、校舎のほうを指さす。
「あそこにもっとすごいのがいるんだがな……」
 全員が一斉にそちらを見る。
 そこにいたのは、
「理事長!」
 真白にかわって理事長になった姫野二三だった。
 問題はその格好――
 彼女はいつものように、赤いメイド服に白いエプロンドレスを着用していた。
「やっぱりこれがしっくりきますね」
「…………」
 その場にいる誰もが、何も言い返せずに固まった。

     ※

 朝の鐘が鳴っていた。

 舞衣は一人教室でそれにじっと耳を澄ます。
 巧海と二人でよく聞いたその音――今、巧海は晶と一緒にアメリカに渡り、毎朝メールもくれる。手術の経過は順調なようだ。
 朝の教室には誰もいない。
 二学期が始まる今日は、つまり夏休みが終わった次の日ということになる。
 こんな日に早起きして学校に来るのなんて、よっぽどの物好きだ。
 でも、舞衣は部屋でじっとしていられなかった。
 机を見た。
 そこには彫刻刀で削られた落書き。なぜかそれが、とても懐かしい。
「よお、早いな」
 声をかけられて顔をあげるとそこには、
「楯……おはよう」
 物好きがもう一人いた。
「おう。いや……まいったぜ、久しぶりに道場で竹刀握ったら全然でさ……詩帆のやつに説教されちまった」
 楯が舞衣の席、その斜め前の窓際に座ってスポーツドリンクを飲み干す。
「ホントにダメね」
 舞衣は座ったままその顔を見上げた。
「どうした?」
 楯が、舞衣にはとても大きく見えた。
「でも、それでいいよ」
「?」

     ※

 千絵は教室へ入るのをためらっていた。
 夏の初めに、あんなふうに別れた友達と、どうやって会えばいいのか分からない。
 そっと中を覗いた。
 いた。
 千絵は、その背中を見つめた。
 なぜだろう、見慣れていたその背中がすごく大人びていて、知らない人のように見えた。
 じっと見つめていると、彼女が振り返った。
 眼が合う。
「あ――」
 彼女の眼が驚きに見開かれる。
 千絵は動けないままそこに立ち尽くした。
 逃げようと身体に力を入れた千絵に向かって彼女は、笑顔で大声を張り上げた。
「おはよう……千絵!」
 逃げたい。
 でも――。
 舞衣の顔を見ないで、自分の足を見つめながら、勇気を持って千絵は教室へと足を踏み入れた。
 一歩二歩、夏休みのあいだに考えていた仲直りの言葉、それが思い出せない。
 千絵は、途方にくれた顔で、仕方なく言った。
「舞衣……ごめん」
「うん……」
 千絵はぽろぽろと泣いた。
 ごめんってなんだ、
 自分のばか――
 千絵は、
 大切な夏休みが、たったひとつの言葉を言うために消えたという事実に、
 こんな言葉をずっと言えなかった自分に、
 なにより、そんな自分を許してくれた舞衣の優しさに、
 涙を流した。
 舞衣はそんなかけがえのない友人を、愛おしそうに見つめていた。
 みんなが不思議そうな顔で舞衣たちを見つめていた。
 舞衣はそのひとつひとつの顔を、
 改めて見上げる。
 それは、まるで空のように澄みわたって、ひろがっていた。
 いつか見えなかった空が見える。
 窓のほうへ目をやる。
 雲ひとつない青い空、その手前には楯の笑顔が見える。
 空と笑顔が重なって溶け合い、まるで綺麗な想い出みたいに青い色に染まっていく。
 それが今日からあたしの空だ。
 ずっとその空だけは失わないだろうと、舞衣はたしかにいま思う。

 それだけは、永遠に失わない確かな想いだと信じられる。

■――炎凪

「これでよかったんですね」
 水晶の姫がぼくに訊ねる。
「いいんじゃないかな」
 彼女たちがいる風華学園を、ぼくらは眼下に見下ろす。
「媛星が消えたことによって、この世界はますます不安定になりますね……それに、接近した媛星の影響で世界はまだ混乱の中にある――」
「それでも、彼らはきっとだいじょうぶだよ――これまでだって、そうだろ?」
 これまで――人が生まれてから何十万年。
 その言葉の重みを、水晶の姫も、ぼくも知っている。
「でも……これから始まるのは、今までとはまったく違う時代」
「それでもだよ――行こう」
 ぼくと水晶の姫は手を取り合った。
 どこへ行くのだろう。ぼくらは。
 たぶん他の宇宙、他の星、他の世界、なんにせよ、ぼくらはどこかへたどり着くだろう。
 それは確かだ。
「光あれ」
 ぼくはこの世界に向けてそう告げる。
 それは遍く世界に溶けた。

 人が人を想うこと。
 それだけが救いなのだと。
 君たちはいつの時代も嘘を言う。
 嘘が嘘なのか分からないくらいにすり切れていて、
 君たちにはそれが本当のことのようにも思えるんだ。
 だからぼくらも信じてあげる。
 希望を持ち続けることを。
 人を愛し続けることを。

 すべての愛すべき愚かな人間たちに。
 父となる男の子に、
 母となる女の子に、
 大人になる君たちに、
 そして――

 生まれてくる子供(世界)たちに、

 心の底から。

 ぼくらは遠い場所から、祝福を捧げ続けよう。
 光りあれ、と――。

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